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七人の侍から見える黒澤明的百姓の本性

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「百姓」という言葉やその存在は総じて美化されがちだが、果たしてそうか?
ということを黒澤映画「七人の侍」を通して考察してみた。
参照 岩波新書 「七人の侍」と現代 四方田犬彦著

黒沢映画の代表作の一つ「七人の侍」

初めて鑑賞したのは二十歳を超えた頃。

黒澤明は百姓をどのように捉えていたか

作中で描かれている百姓の共通点。それは彼らが頑迷にして狭量であり、卑屈にして臆病という点である。
黒澤は農民を、無傷の理想的な存在として賞賛することは決してない。
黒澤は農民たちが人格的にいかに萎縮し、憎悪と怨恨に翻弄されはするものの、人言相互の信頼感を喪失して久しいかを一貫して描き出している。

百姓出身の菊千代の言葉

「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しダァ!
 ハハハ、おかしくて涙が出らぁ!」

このシーンでは学ぶべきとされる崇高な農民とは正反対の、現実に生き延びるためには平然と手を汚しても構わないと言った百姓の姿が映し出されている。

後に、菊千代は百姓を罵倒し、侍を強く批判する。しかしその彼自身が典型的な戦国武将の鎧兜で身を固め、いかにも正統的な侍然とした格好で喋るという矛盾を披露する。菊千代の存在は少し百姓が救われる瞬間でもある。(一気に俗物的な例えになるが、「矛盾」という視点で一昔前のヒップホップ業界のようだと個人的に重ねている。「お前ら日本語ラップしろよ!」という本人が、ニューヨークヤンキースのベースボールキャップを被っているそれである。)

平八が作成した戦のための旗の意味

○6つ、△1つ、その下に平仮名で「た」
○は六人の侍を、△は菊千代、「た」は田圃の「た」で大勢の百姓を表してる。
△の菊千代は、「侍になり切れていないと百姓」という意味合いで描かれている。

菊千代に対する親近感

菊千代は単に侍と百姓の境界線を生きてきただけの存在ではない。おそらく彼は戦災孤児として逞しく生き延びた一人である。その背景が、この映画が公開された9年前に起きた東京大空襲の時に人々が体験してた惨事と重なることでより一層の親近感があったと考えられる。
また、この映画が公開された同年、核実験反対の意図を込められた「ゴジラ」が公開されていることにも注目したい。

善意の農民の否定

映画中盤から露呈する百姓のエゴイズム。侍を利用こそすれ、決して彼らに胸襟を開こうとしない頑なな態度。落ち武者狩りで盗みえた武器を隠匿し、侍の前では稗(ひえ)しか口にしない仕草を示しながら、実は食糧や酒を大量に備蓄している。
黒澤明はこのような百姓のあり方はすべて支配階級である侍に由来するものであると、示している。

黒澤がみた百姓

七人の侍は、人間としての百姓の部分的本質を垣間見る貴重な映画であると思われる。

現代の時代に重ねてみても、通じるところが少なからずある気もする。
特権階級(?)に抑圧される農家は、時として卑屈にならざるを得ない。
そしてその怨念の塊が、自らの土地から離れることのできない農家の行動原則たらしめる。

陰険な百姓の生々しさ、薄暗い底力のようなものを見せつけられた感覚が後々まで残る作品であった。

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この記事を書いた人

「農にイイこと、脳にイイこと」

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